「ハーレム禁止の最強剣士!」ブログ

「小説家になろう」「カクヨム」で青葉台旭の名前で小説を書いています。その新規投稿の告知をします。読んだ小説の感想や、観た映画の感想を書いています。撮った写真を載せています。

ネットは言葉を省略しがちだから「承認欲求」にせよ「意識高い系」にせよ本当は「実力の伴わない承認欲求・意識高い系」という意味だと思う。

なぜ人は道具を発明してきたかといえば、その道具によって何らかの欲求を満たしたいからだ。

速く楽に遠くへ行きたいという欲求が自動車や船や飛行機を生んだわけだし、飢えを満たしたい美味しい物を食べたいという欲求が「砂糖の発明」に繋がった。

そして残念な事だけど、新たな道具を悪意を持って使用したり、悪意は無くても使いこなす能力に欠けるがゆえに、自分を傷つけたり他人に迷惑をかけたりする人間が出現してしまうのも、歴史上、繰り返されてきたことだ。

誰もが自動車を持つようになれば、暴走行為をする者も現れる。
砂糖の過剰摂取は体に悪いと分かっていても、自制できずに甘いものを食べてしまう人もいる。

インターネットが発明されて、誰もが発言し発信できるようになった。

そしてネット上で注目を集めるために、非常識で迷惑な行為をする投稿者が現れた。

しかし、それは「ソーシャル・メディア是か非か」とか「承認欲求」とかの問題というよりは、投稿者本人の良識、常識、道徳心の問題だ。

確かに、そういう人たちはこの世にインターネットもSNSも存在しなければ、下手に承認欲求を刺激されることもなく、目立ちたい一心で非常識な行為に至る事もなかったかもしれないが、常識ある大多数の人間はSNSがあろうが承認欲求があろうが非常識な行いは踏み止まるものだろう。そこを彼らは踏み止まらなかったという自制心の無さこそが問題だと思う。

ちょっと前に「意識高い系」という言葉がネット上で流行した。

「意識高い系」とは、いかにも「私は何事に対しても高い意識を持って望んでいます」という振りをしながら、その実、たいした事はしていない、口先ばっかりの人を揶揄する時に使う言葉だ。

この「意識高い系」という言葉が嫌いだという書き込みをどこかで見たことがある。

その書き込みは、要約すると「高い意識を持って行動して何が悪いのか。高い意識を持つ人間を小馬鹿にするその態度が許せない」というような内容だったと思う。

これを読んだ時わたしは思った。

「この人は、『意識高い系』というのが省略された言葉だという事に気付いていないのだな」と。

つまり「意識高い系」という言葉は「本気で高い意識を持って物事にあたるつもりも無いくせに、口先ばかりで、さも意識が高いような事を言う人」の省略形であり、意味の重心は、むしろ省略されている「口先ばかり」の部分なのだという事に、気付いていないのだと思った。

「意識高い系」と言って他人を揶揄する人たちも、例えば、本当に高い意識でトレーニングに励むプロスポーツ選手の発言を「意識高い系」だとは言わない。

同じように「承認欲求(笑い)」という書き込みを見て、真面目に「承認欲求の何が悪い。どんな欲求だって、それ自体には良いも悪いも無いだろう」と反論している人たちは、「承認欲求(笑い)」が「実力も無いのに承認欲求ばかり肥大化させた奴」の省略形だと言う事に気付いていないのだと思う。

例えば、ネットで目立つためにアルバイト先の商品や機材を汚して雇用主および客に迷惑をかけた人間を「証人欲求(笑い)」と皮肉るかもしれないが、同じように注目をあびたいという動機から真面目に楽器の練習をして玄人はだしの演奏を投稿した人には、「証人欲求(笑い)」とは言わないと思う。

まあ、そうは言っても、何かというと皮肉な態度で他人の言動を揶揄する人がネット世界には多いのも事実だが。

多少の事であれば、あえて気にせず無視するのも手かと思う。ネット上のネガティブな発言にいちいち心をいら立たせていたら身が持たない。