「ハーレム禁止の最強剣士!」ブログ

「小説家になろう」「カクヨム」で青葉台旭の名前で小説を書いています。その新規投稿の告知をします。読んだ小説の感想や、観た映画の感想を書いています。撮った写真を載せています。

Chikirin氏の「東京一極集中と地方の衰退は無関係」は、市場をあまりに合理的で静的なものとして考えすぎている気がする。

Chikirin氏のブログ記事

東京一極集中と地方の衰退は無関係 - Chikirinの日記

について。

そもそも「東京一極集中」対「地方の衰退」という構図を私は聞いたことがない。

私は今、地方に住んでいる。

確かに年々減り続ける人口、とくに赤ん坊・子供・若者の減少に関して心配する声はよく聞く。

そういう話になった時に感じるムードには「まあ、これも運命だ。仕方ないよな」という諦め感の方が強いだろうか。

しかし人間「諦めるしかない」と頭では分かっていても「どうにかなるものだったら、何とかしてほしい」という一縷の望み、諦めの悪さのようなものを完全に捨て切る事も出来ない。

この揺れ動く感じが、本音だろう。

「ほとんど諦めてはいるけれど、誰かが何とかしてくれるのなら、ぜひ何とかしてほしい」というのが地方に住んでいる人たちの気持ちだろうか。

問題は「誰が、どうやって、この少子高齢化問題を解決してくれるのだろうか」という事だ。

地方に住んでいる人たちが「自分たちの問題を解決してほしい」という時に、真っ先に思い浮かべるのは

  1. 地元の自治体(=地方のエリートさんたち)
  2. 国(=東京のエリートさんたち)

である。

つまり東京の人たちというのは、地方に住む人間にとって「俺ら自身ではどうしようもない問題を解決してくれる、頭の良い人たち」なのである。

「兄貴、俺ら少子高齢化で困っているんだよ。何とかしてくれよ」という。

地方の人間にとって重要なのは「自分たちの町の人口減少」であり、正直、「東京一極集中問題」なんて、どうでも良い。

ただ「俺たち自身どうにもならない問題を解決してくれるのが、東京のエリートさんたち」という期待は持っている。

 「東京から地方への人口の移動」という可能性も、チラッとは考えたかも知れない。「同じように人口減少にあえいでいる隣の町から住民を奪う」などという議論よりは、角も立たないし。しかし別に、その事にこだわっている訳ではない。

極端な話「町の若い衆の性欲が突然百倍になって、次から次へと子供が生まれてくるような特殊ガスの散布」という解決策でも別に良い。

ただし、その特殊ガスを開発するのは、地方に住む俺ら自身ではない。
問題を解決してくれるのは、いつも東京に住む頭の良い人たちだ。

地方目線で見ると今回の記事は、「東京に住む頭の良いChikirinさん、一極集中とか、そういうの別にどうでも良いから、とにかく俺の町の人口を増やして下さい。魔法でも何でも良いッスから。手っ取り早く頼んます」という「俺ら地方のマーケット・ニーズ」に答えてくれていない。

「オレノマチ、ヒト、イナイ。トウキョウ、ヒト、イッパイ。トウキョウ、オレノマチヲ、助ケロ」

と、地方が言っているのに対して、

「無理。せいぜい地方同士で食い合ってくれ。私ら東京の人間、地方に住むなんて絶対無理だから。まあ、名古屋・大阪クラスが東京並みに高級レストラン揃えてくれたら考えるわ」

というのが氏の結論なら、地方の人間として(薄々分かっていたにしても)冷たく感じるだろう。

まあ、Chikirin氏も別に地方自治体に雇われている訳でも無いだろうし、東京という街自体、これ以上地方に構ってやる義理も体力も既に無い、という事かも知れないが。

私の意見を書く。人口減少にあえいでいる全ての自治体を救う事は出来ないだろう。諦めるしかない。しかし一部の地方都市が「富=外貨」を集める事に成功すれば、それに応じて人口も増える可能性はある。

国全体の人口減少が続いている以上、人口が増える自治体より減る自治体の方が多いというのは単純な算数だ。受け入れるしかない。

子供に対する思い切った補助金や優遇税制、あるいは移民の受け入れなどで国全体の人口が上がるのなら別だが、そうでない限り、多くの自治体で人口が減少するのは仕方が無い。

ただ、一部の地方都市で人口が増加する可能性はある。そのためには「外貨」を稼ぐしかない。

「外貨」というのは、ひとつは文字通りの意味で、世界中の地方都市と競争しても勝てるような製品をその町が持っているかという事。

あるいは、海外とまではいかなくても、少なくとも国内において他の地域から買ってもらえるような、それで大儲け出来るような強力な商品を持っていることが大事だ。

自治体の外から金を大量に持ってくることが出来れば、いずれ内需も回って行く。人も集まる。

歴史的に見ても、結局は金の集まる所に人も集まるし、金が集まらなくなった都市は衰退していくのではないだろうか。

地方都市の皆さんは頑張って欲しい。

Chikirin氏に対する疑問点。その1。東京人の中で、場合によっては地方に住んでも良いと思っている人間は、氏が思っている以上に多いのではないか。

Chikirin氏の論調だと、東京に住んでいる人のほとんどは「東京(あるいは、それに匹敵する都市)じゃなきゃ絶対に嫌だ」と思っている……そういう風に読み取れる。

たまに東京生まれで大自然が合う人もいるだろうが、しょせん、それは突然変異であって、多数派ではない……という事だろうか。

しかし、私は、東京1300万人のうち「場合によっては(充分な収入が得られれば)地方に住んでも良い」と思っている人は実は相当数に昇る気がする。

あるいは「昔は『東京じゃなきゃ絶対嫌だ』と思っていたけれど、事情があって地方都市に住んでみたら、ここの暮らしも悪くない」という「住めば都」な人も実はかなり多いと思う。

Chikirin氏のような、ガチガチのハードコアな「東京(大都市)愛好家」の方が、むしろ少数派なのではないか。そんな気さえする。

ただ、今は地方都市の国際競争力が落ちてしまって、受け皿が無い。

「就職できないから地方に移住できない。だから仕方なく東京に住んでいる」という人も多いと思う。

そういう人のためにも「国際競争力のある地方都市」への脱皮は絶対条件だと思う。

今回のChikirin氏の記事を読んでいると、人間というものを「大都会に住みたい人」「地方都市に住みたい人」「田舎に住みたい人」の三種類に分け、しかも、この三者は生まれた時からクッキリ色分けされていてほとんど変更の余地がない、というような印象を受ける。

しかし、それは人間というものをあまりに「合理的で一貫性のある存在」としてとらえ過ぎてはいないだろうか。

「消費者=人」というものを、あまりに単純化し類型化し固定化された存在としだけ捉えるのは「マーケティングの見地からも」いかがなものか、という気がする。

マーケットは現状分析の対象であると同時に、自ら創造するものだろう。

「ドリルが欲しいと言った客が本当に欲しかったのは『穴』である」とか「消費者は自分たちが本当に欲しい物を知らない。だから俺が作る」という発想が必要ではないか。

人間は合理でもなければ一貫性もない。私自身の消費活動を思い返しても「昔、なんであんなものに夢中になったんだろう」と思う事もしばしばある。

今は「東京以外考えられない」と思っている人にも「地方都市○○市って案外住みやすいね」という日が来ることも有りうる。

またテクノロジーの進歩は、新たな市場を一夜で作り、それまで絶好調だった市場を一年で殺してしまうという事をしばしば起こす。

「東京」の市場価値が永遠に高く保たれる保証は無い。

逆に発展途上国で、砂漠の真ん中やジャングルの奥地に突如高層ビル群が現れるのを、我々は何度も見てきた。

東京もローマも北京もシリコンバレーも、かつては見渡すかぎりの原野だったのではないか。

栄華を極めた古代都市が、崩れかけた石だけを残して消え去った事も、我々は知っている。

そこに住んでいた人々は、どこへ行ったのか。

没落する故郷を捨て、その時々の富の中心……かつては「ど田舎」と笑った新興都市に移住したのではないか。

人間は流転するし、都市も、市場も流転する。

疑問点。その2。人間を消費者としてしか見ていない。市場を消費者の集合体としてしか見ていない。

どの地方都市に住むか、あるいは東京に住むか、という選択をするとき「自分の消費スタイル」を中心に決める人は、昔より少ないような気がする。

なぜなら、ネットの発達やショッピングモールの出店で、地方での消費の選択肢も随分広くなったから。

もちろん、膨大な数のレストランや高級ブティックのような「東京都でしか味わえない消費」も依然として存在するが、「そういう東京ならではの消費に毎日どっぷり浸っていないと我慢できない」層の数を、Chikirin氏は、ちょっと強気に見積もり過ぎてはいないか。

都民1300万人のうち、ほとんどの人は会社帰りにスーパーでキャベツと卵と牛乳を買ったり、コンビニで夜食を買ったりしているのではないか。

なら地方都市での暮らしと変わらない。コンビニもスーパーも地方都市にだって何軒もある。

むしろ、都民1300万人を東京に定住させているのは「職」の要素のほうが大きいのではないか。

それと住居。親と同居、あるいは親からもらった家に住んでいるというのは大きいかもしれない。

逆に言うと、職と家さえあれば、地方都市に住んでも良いと思っている人は、東京都民の中にも相当数いるのではないか。

だから「東京一極集中→地方都市へ」というのも、あながち夢物語とも言えない気がする。

繰り返すが、それには「地方に納得できる職がある」というのが前提だ。

求人の数は、その地方都市が「外貨」獲得エンジンを持っているかどうかで決まる。外貨が稼げれば内需産業の雇用もいずれ生まれる。

高級レストランやブティックに縛られて東京に定住している人は、実はそれほど多くない。

問題は「職」だ。職(=富)さえあれば、東京からだろうが近隣の地域からだろうが、人はやってくる。

田畑を耕して糧を得ている人と違い、都市生活者というのは、基本的には「漂泊民」だ。

土地に対する忠誠心は、実はそれほど強くはない。

「東京だから」ではなく「富=職のある所に集まる」人がほとんどのような気がする。

どこへ行っても、ある程度豊かな消費活動が保証されている現在、ほとんどの人の興味は「富の消費」より先にまず「富の獲得」にある。

 富=職さえあれば、地方都市でも人を集められる。

まずは「外貨」を稼ぐことだ。確かにそれは簡単な事ではないけれど。

疑問点。その3。大都市と地方都市の境界は何処か。

「都市圏」という言葉がある。

首都圏とか、大阪都市圏とか、名古屋都市圏とか、サンフランシスコ・ベイエリア都市圏とか。

交通機関が発達して「郊外」がどんどん伸びて行って、ついに隣の行政区とくっついて、ひとつの大きな圏域になってしまった。

横浜市は東京ではないが、「東京対地方」という図式でいえば、東京軍団の一員だろう。

では、鎌倉は? 茅ヶ崎に住んでいたら「地方在住」なのか。相模原はどうか?

箱根の峠までは「東京」か。高尾山に住んだら「東京一極集中」の一員か。

おそらく、こういう首都圏辺縁部に「わざと住んでいる」人も多いのではないだろうか。

普段は綺麗な空気を吸いつつ、その気になれば東京へも一時間以内という選択肢をした人々は、Chikirin氏にとっては、どのクラスに分類されるのか。

大都市と地方都市の境目。別の意味で。

Chikirin氏によると、名古屋や大阪は、現状では大都市ではなく、地方都市の一番上に自ら身を置いているということらしい。

一方で、サンフランシスコは分類1の東京やニューヨークと肩を並べる大都市という事らしい。

しかし、サンフランシスコ・ベイエリア都市圏の人口は460万人で、名古屋都市圏は550万人、大阪都市圏は1200万人にもなる。

何をもって、サンフランシスコは東京と同じ大都市に分類されているのか。

ドイツのミュンヘンはChikirin氏によると大都市に分類されているが都市圏人口は260万人だ。

結論。

「東京一極集中と地方の衰退は無関係」というChikirin氏の言葉には、私も同意する。

しかし、その二つをリンクして考えている人は、そもそも多く無いと思う。

ただ、そういう対立関係をことさら煽らなくても「今は東京に住んでいるけど、場合によっては地方都市に住んでも良いかな」と潜在的に思っている人の数は、最近増えてきたのではないか、と思う事がある。

私が上京したころは、まだバブルの残り香が東京に残っていたから、とにかく全てにおいて絶対的なブランド序列があった。

「東京」の絶対性は揺るがなかった。東京を離れることは「都落ち」と呼ばれ、蔑まれた。

しかし、今、東京人も含めた多くの日本人にとって「東京」は、かつて程には絶対神聖な場所では無くなりつつあるような気がする。

ひとつは、ネットやアマゾンやショッピングモールによって「地方でも大抵の物は手に入る」ようになった事。

もう一つはバブルの崩壊以後「東京」という街が、「何が何でも、ここに住まなきゃ」と思える程の「良い経験」をさせてくれなくなった。少し、弱くなった。

夜ごと高級レストランでシャンパンを呷れる一部の上流階級はともかく、「東京に住む大多数の中流階級」の人々は「もう、別に東京じゃなくてもいいかな」と思い始めているのではないか。

それでも「場合によっては地方に住んでも良いと潜在的に思っている東京人たち」が結果として東京から離れられないのは「地方に仕事が無い=地方に富を生み出すエンジンが無い」からだろう。

地方の人は、まず、それを作るべきだ。

あなたの住む地方都市に「トヨタ」の本社があれば、入社したエンジニアは東京から引っ越してあなたの街に住むだろう。

アップルに入社したエンジニアは、喜んで「大都会」ニューヨークから「地方都市」シリコンバレーに引っ越すだろう。

考えてみれば東京だって最初から花の都だったわけではない。徳川家康という一人の男が、そこに城を作ろうと思ったのが始まりだ。

家康が関が原で勝って天下を統一すると同時に、権力者の下に富が集まり、それにつれて人々が集まって、今の東京が出来たのではないか。

トヨタが豊田市にあるのも、アップルがクパチーノにあるのも、別にそこが「大都市」だったからではない。

豊田喜一郎が、スティーブ・ジョブスが……要は一人の男が「ここに住もう」と思ったのがすべての始まりではないか。

「東京一極集中」どうするこうするという議論が、地方に人を呼ぶわけではない。

「富を作り出すエンジン」が人を呼び寄せるのだ。

誰かが、その土地に「エンジン」を置けば、人は自然と集まる。近隣の町村からも、東京からも、アメリカからだって、インドからだって集まる。

今日、あなたの家にやってきて「会社を興したいから、お宅のミカン倉庫を貸してくれ」と言ってきた青年は、スティーブ・ジョブスに少し似ていなかっただろうか。

あるいはビル・ゲイツに。あるいは若き日の松下幸之助に。本田宗一郎に。井深大に。

ひょっとしたら10年後、一面のミカン畑だったあなたの敷地には、巨大コンピュータ企業が軒を連ね、あなたが青年に貸したボロボロの納屋は「みかんコンピューター発祥の地」として世界中の人が訪れる観光名所になっているかもしれない。

*以下、宣伝。

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青葉台旭・作
ハーレム禁止の最強剣士!

自作の小説です。よかったら読んでみてください。