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「ハーレム禁止の最強剣士!」ブログ

「小説家になろう」「カクヨム」で青葉台旭の名前で小説を書いています。その新規投稿の告知をします。読んだ小説の感想や、観た映画の感想を書いています。撮った写真を載せています。

オリンピックは「成熟期」に入ったかもしれない。

社会 経済

「国家の威信をかけて」開催され、「全国民が熱狂するべきもの」では無くなった。

2016年8月10日現在、ブラジル・リオデジャネイロでオリンピックが開催されている訳だが、私の周囲での盛り上がりが昔ほどではないように感じる。

昔は、オリンピック開催期間中(とくに夏季)は、学生も社会人も、「昨日の○○(種目名)の決勝観た?」とか、日本と時差のある開催地だと「昨日は深夜まで起きて決勝戦を見てたから眠いよ」とか「今朝は4時に起きて決勝戦を見たよ」とか、みんなあいさつ代わりに言っていた。

ところが、今年のリオデジャネイロに関しては、ときどき話題にはなるものの、かつて程の熱狂が日本の社会全体からは感じられない。

ブログの話題なども、今なら「ポケモンGO」とかの方がホットなのではないだろうか。

20世紀的なもの

考えてみれば、「国家の威信をかけて開催され」「全国ネットの地上波テレビを通じて」「全国民が熱狂する」ことを前提としたイベントというのは20世紀的価値観を基盤にしているのかも知れない。

1984年の「ロサンゼルス・オリンピック」以降は、ここに、世界的スポーツ・ブランドなどの巨大企業と広告代理店が大金をかけて盛り上げるという巨大商業イベントとしての側面が加わった。

この「巨大企業が」「巨額の宣伝広告費をかける」「一大イベント」というのも、やはり20世紀の発明品だ。

21世紀に入って16年目の現在、そういう物に対して人々(とくに先進国の人々)は、昔のように「熱狂」で答えるのではなく、もう少し「落ち着いたスタンス」でオリンピックというものを見始めているのではないだろうか。

全国民がオリンピックという一つのイベントに熱狂する時代でも無い……オリンピックであれ何であれ、もはや「一億総○○」という言葉で何かを修飾する時代でもない、という事か。

「成熟期」という言葉を使ったのは、これが即「衰退」とか「オワコン」を意味しないからだ。

発展か衰退か、という言葉を使うと、どうしてもプラス・マイナスという価値基準が優先されてしまうが、そうではなく、こういう国際スポーツ・イベントと人々との付き合い方が質的に変わったという事だと思う。

昔よりもスポーツに興じる人は増えている気がするし、それぞれが趣味にしている種目も多様だ。

数あるオリンピック競技の中でも、マラソンが趣味の人は「マラソンだけは」見るかも知れないし、サッカーが好きな人は「サッカーだけは」見るだろう。バレーボール好きはバレーボールを、柔道を習っている人は柔道を、テニス好きはテニスを見るだろう。

しかし、日本国民のほとんどが、あるいは世界中の人のほとんどが夜ふかしし、早朝に目覚ましをかけてまで大会期間中ずっと熱狂し続けるという時代は終わったのではないか。

これからの時代は、オリンピックを観る人はオリンピックを見るし、別の人は同じ時間にポケモンGOに興じる、そういう多様な余暇の過ごし方の中の一つ、という位置づけになっていくだろう。

それは「衰退」「オワコン」を意味するのか?

確かに全日本人、大袈裟に言えば全人類が同時に熱狂する一大イベントだった20世紀の位置づけに比べれば、ある意味、そういう事になるのかもしれない。

しかし、タイトルを「衰退」ではなく「成熟」としたのは、「世の中には色々な趣味があるし時間の過ごし方もあるし話題もある。その中の一つとして、オリンピックがある」という形は、むしろ正常であり、人と趣味との距離感として、むしろ好ましいと思ったからだ。

オリンピック期間だからと言って、居酒屋の全てのテーブルでオリンピックを話題にする必要は無い。

あるテーブルではオリンピックについて、また別のテーブルではポケモンGOについての話に花が咲いている。それで良いと思う。

アマチュア・スポーツの国際的な第一級競技大会としてのオリンピックは続いて行く。

個別の競技をみれば、それぞれのジャンルに於いての第一級国際大会であることは、今も昔も、また将来も変わらないだろう。

しかし「単なるスポーツの国際大会を超越した、全人類が一つになれる巨大イベント」としてのオリンピックの役割は、徐々に薄まって行くのではないだろうか。

発展途上国から脱皮して、先進国の仲間入りをするためのブースターとしての存在意義は、これからも多少は残るかも知れない。

1964年の東京、1988年のソウル、2008年の北京など、発展途上国から先進国へ切り替わる節目のイベントとしては、まだ有効かもしれない。

そういう意味では、今年のリオデジャネイロ五輪は、ブラジルという国にとっては良いタイミングだったのかもしれないが、今回のインフラ整備などのごたごたを見ると、「発展途上国が先進国へ脱皮するために必要な国家プロジェクト運営の手腕」がブラジルには本当にあるのかな、という気がしないでもない。

これからオリンピックを開催する意味が大きい国としては、インドがあるだろう。

逆に「既に先進国になってしまった国」でオリンピックを開催する(国家としての)意味というのは、年々低下する気がする。

次の東京五輪について。

何十年も前に先進国の仲間入りをし、少子高齢化の成熟社会に入った日本でオリンピックを開催する(国家としての)意味は、1964年ほどではないだろう。

もちろん個々の競技者や、地元で観戦したいと思っている個々の競技愛好家にとっては、母国で開催する意味は十二分にある。

また意味があるかないかは別にして、とにかく4年後にやると決まっているのだから、成功させなければいけない。

この「成功」の意味は本来の「スポーツの世界大会としての成功」であって「半ば商業化されたエンターテイメント・イベント」としての意味ではない。

スポーツ大会である以上、来日選手に対する必要十分な宿泊環境の提供や、審判の公平性、競技場の(イベント会場としてではなく、あくまで競技をする場所としての)質、スムースな段どり、などは必要だ。

しかし、いたずらに華美な演出は要らないし、過剰な設備投資も必要ない。

地味であっても、競技大会として実のあるものであれば、それで良い。

かつて、1984年のロサンゼルス五輪では、ジェットパックを背負った人間が空を飛び、ハリウッドの有名音楽家の曲が鳴り響き、日本中の、世界中の人々の度肝を抜いた。

それは全世界に同時中継され、巨大企業スポンサーと広告代理店の間に札束が舞う巨大「商業」イベントとしてのオリンピックの始まりだった。

しかし、もう、そういう時代でも無い。

4年に一度、世界中の競技者が一カ所に集まって世界一を決める。ただそれだけの大会で良い。

過剰な演出は要らない。過剰な投資も要らない。